2016.2.7

キッチン

渋川朋之

美創

原点に戻って

年明けから少し時間がたちました。
昨年末「どうぞ良いお年を」年始に「今年もどうぞよろしく」と挨拶して歳を越してきました。毎年の事ながら期待と不安の門出です。昨年は終戦から70年、今年はバブルが弾けて25年、東日本大震災から5年。人は節目を探してはそこに心の傍線を引き「今年こそは」と誓いを立て、目標に向かって歩き始めます。私も1月4日に明治神宮の玉砂利を踏み拝殿に向かい、大勢の人たちと並んで何がしかの誓いを立て虫の良い「神頼み」をしてきました。

私は昭和23年から昭和31年まで杉並区西荻窪南口近くで育ちました。駅前の小さな貸家で空襲には遭いませんでしたが当初、ガス、水道はなく七輪での炊飯は私の役目でした。
浅川行(現高尾の旧駅名)の列車は、時折蒸気機関車が黒い煙を吐き蒸気の音を響かせ新宿から立川まで東西一直線の中央線各駅は夏場のこの煙を嫌い、煙のこない駅南側から発展してきたと聞かされました。
敗戦で燃料すら乏しく、後ろに釜をつけた木炭バスが西荻と荻窪の間をブファブファと走っている時代でした。戦前の状態を保っているこの街には広大な屋敷とバラックが混在し、貧富の格差は今以上だった様に思いますが比較や差別といった意識はなく、物にあふれた今の時代より幸せな時代だったのでは無いでしょうか。

さて、表題ですが人類が樹上の猿の仲間と別れ、地上に降りて最初にとった行動は建築です。降り立った場所にある木や石や土などで囲いを造り屋根を乗せて他の動物や自然から自らを守ったのです。
私の祖父母は空襲で全てを失い、まさしく近所の空き地や焼け残った家から木材をかき集め掘立小屋を造り一冬を越し一年余りを自作の小屋で雨露を凌いで生き延びてきました。

道に迷えば出発点に戻って再び歩き出す。つまり原点を知っていることがいかに大事なことか、南極越冬隊の一人の死者は小用を足す為、基地の小屋から10mはなれて帰れず、遭難しました。小屋の前に明かりひとつ置けば助かった筈です。

昨年、古希を迎え今年は原点に返って来し方行く末をもう一度見つめなおす年にしたいと思っています。人は誰でも原風景を持っています。それはいつか帰りたい場所なのでしょうか。それとも心の中にある憧れの故郷なのでしょうか。子供のお絵かきの様な絵をもう一枚添付しますが、山裾に煙たなびくのどかな田園風景の夢をしばしばみます。

故郷のない東京育ちの私にとっての夢の中の原風景です。

敗戦とバブルとその後の価格破壊の時代を生き、我々は多くのものを失いました。「人は欲望を叶えれば叶えるほど不機嫌になる。」昔読んだ誰かのエッセイの一文です。確かに日本人は怒りっぽくなり自分の事しか見えない人が多くなった様に思います。

殺伐とした世の中だからこそ原風景の中に心を宿し、もう一度見つめなおしたいと思います。卒業式の日にいじめっ子で人一倍のガキ大将が誰よりも泣いていました。この泣き虫とは今でも親しくお付き合いしておりますが、昔を懐かしむと同時に飾り気のないこの時代こそが私の本当の原風景か、とも思えます。

美創 / BISO


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